日々平穏、善哉善哉。

南四国でアラフォーのオバチャマが、好きなものをひたすらに叫ぶだけのブログです。ごくごく稀に真面目な話もあります。

雪。

こんにちは、ちひろです。
寒いです。ここ何日か、全国的な寒波で四国ももれなく激寒です(ノω`)
おウチでコタツムリと化してます。
普段の寒さなら、ヒートテックだけで出勤する旦那がホッカイロ握りしめての出勤(分かりにくい💦)



寒いのは苦手。
でも、雪は嫌いじゃないんです。
数年やらなかったりはあるけど、スキー歴長いので。
でも、雪道の運転は嫌い。
四国でも寒波が来ると雪は降るし、ごく稀に積もる。積雪ミリ単位で交通網は麻痺します。
運転するみんな、怖いんですよ。
スタッドレスなんて履かせてないし、教習所でチェーンの巻き方なんて教わらないし。
そんな雪道ビビりのちひろですが、旦那は違います。
普段はノーマルタイヤの会社の車に手際良く昔ながらのチェーンを巻いて、颯爽と、しかし凄まじい騒音をまき散らしながら山の雪道を走りやがります(笑)
というわけで、かつてあった出来事をご紹介。



その日、ちひろは珍しく所用で四国山地を越えて北四国へ。凄まじい寒波が来るよ、と予報が出てたので、前泊しました。休日だったので、旦那が運転手で付き添い。
朝から牡丹雪が舞ってました。
ちなみにあるお方のツイートに四国の観たことない景色が分かります。

https://twitter.com/nagaokaryosuke/status/692899905308749826

https://twitter.com/nagaokaryosuke/status/692902503139057664

そう、前日に星野源さんのツアー『YELLOW VOYAGE』の高松公演があった日なんです。



実は、夫婦揃って楽観視してました。
南四国への道は2本。
高速道路と、一般道。
高速道路は悪天候になると、かなりの確率で通行不可になります。ですが、一般道はまず通行不可にはなりません。南四国の住民にとってはライフラインなので、止まらないんです。
ま、積雪あってもチェーンがあるからね。
旦那が久しぶりにガッツリ雪道走れる〜(๑•̀ㅂ•́)و✧(ドライブ好き)と喜んでいたくらいだったのですが。

が。

夕方。
一般道で、警察さんに呼び止められ。
「この先は冬用タイヤか、チェーンじゃないとダメ」
「わっかりました!」
旦那、いそいそと、ホントに見事な手際でチェーン装着。
「上手だねぇ」と警察さんに褒められて、通してもらって一般道の雪道へ。
ところが、積雪はどんどん高くなる。
そして、ある橋の上で違う警察さんに再び止められ。
「この先は一般道、通行不可です」

へ?

「高速道路は?」
「通行規制ですけど、チェーンではダメです、冬用タイヤじゃないと」

な、なんですと?

このパターンは想定外。
悩む夫婦に警察さんが一言。
「ここからは冬用タイヤじゃないとダメですけど、違うルートならまだ通れるかも」



四国の地図、想像してください。
通行止めなのはちょうど真ん中、山の中。
普段だったらそのまま南下すれば済みます。
じゃなくて。
真ん中から、ひたすら東に走り、海に行き当たったら海岸線をぐるっと回る。
距離は、まぁいいです。夫婦揃ってドライブ好きなので。
問題はこの雪道。
嫁は雪道の運転は嫌いです。(2回目)



しかし、二人とも翌日は仕事。



…………………。
…………………行くしか、ないか。
だね。



ひたすらに東へ。
山から町の道になると、雪はなくなり、アイスバーン状態。
チェーンって、すごい音立てるんですよ。
周りの通行人が振り返る振り返る(笑)



海までたどり着き、旦那が一言。
今日は、無理かな。
…………だね。



結局、海の近くの街のホテルで1泊(たどり着いたのは真夜中過ぎ)。
翌朝、早めにホテルを出るとそこかしこでアイスバーンになった道に立ち往生する車で、大渋滞。



高速道路も、私たちが通れなかったすぐあとに完全封鎖になったらしく、朝になっても復旧せず。
海岸線をぐるりと周り(雪道じゃなかったので、嫁の運転)、自宅に帰りついたのはお昼。



なんとまあ、とんでもないドライブでしたね。
雪の季節になると、いつも思い出します。



ちなみに自宅にたどり着いたあと、旦那が一言。
海まで行かないで、高速道路の下でホテル取ってたら、あんなに大移動しなくて済んだんじゃない?

え?

いや、実は高速道路は夕方の復旧だったので、結局身動き取れなくなってたのは同じだったんです。
ホントに四国は雪に弱い。
実感した、事件でした( ・∇・)アハハ( ・∇・)アハハ( ・∇・)アハハ

感謝。その2

どうにもちひろは、集中投稿という形が合っているようです😅
なので、思いつくまま投稿します。
投稿ないまま数週間、
でも投稿がある時は1日でドサッと出すので、読まれる方のペースでどぞ。



さて、続き。
星野源さんが倒れた病気とは、どういうものか。
疑問を持ったちひろは、散々ネット検索したものでした。
それが2017年始め。
知識は、ありました。
でも、旦那の発症時、ネットで得た知識は何一つ活かせませんでした。


当たり前ですが、
知識があるのと、対処できるのは別です。
対処なんて、出来ないんです。



病は突然牙をむくんですから。



旦那闘病記でも書きましたが、
まさか自分の旦那が、という信じたくない感情が先に立って、術前説明では得た知識は何一つ思い出せなかったのです。

後遺症があるかもしれない。
いや、その前に手術すらできないかもしれない。
場合によっては……
覚悟、してください。



そんな旦那の命の瀬戸際で、集めた知識は脳裏をよぎらなかったのです。

ただただ悲しみと不安で、眠れない夜を過ごしながら、
ツイートしました。


何をどうしていいのかわからず、

でも吐き出したくて、

でもどうにかなるわけでもない、

でも聞いてほしくて、

それだけでした。



旦那の手術が終わり、最初の峠は越えましたね、と主治医の先生に言われて、ほっとした頃、
ようやく、Twitterを開いてみようと気持ちが生まれました。
通知が来ていたのは気づいていたけれど、どうしても開く気分になれなかったのです。

上記のツイートに、たくさんの数のコメントが寄せられていました。


泣きました。

悲しい、涙ではなく。
嬉しい、涙でした。

フォロワーさんだけでなく、いろんな方から心配と励ましを頂きました。

本当に嬉しくて。
本当に感謝しかなくて。



もちろん、夫婦ともどもいろんな支えをもらいました。
互いの家族。
主治医の先生、看護師さん。
旦那の会社の方、嫁の会社の方。
そして、Twitterで励ましてくれた、皆さん。

みんなに支えられた、私たちです。



本当に感謝、しかありません。
ありがとうごさいます。
皆さんの一言一言に、励まされました。



でも、そのお返しとして何が出来るだろう。
そんなことを考えてきました。
ちひろのPCには、旦那の発症から病状の経過、その日の投薬記録まで細かい記録が残してあります。
落ち着いてからメモに取り、ネットで検索した情報を差し込みながら、作ったデータです。
それをそのまま出すことは、果たしていいのだろうか。
もっと言えば、誰かの為になるのか。
自分が、あるいは身近な人が倒れた時、役に立つのか。
少し悶々と考えた時期があったことも事実です。



転機は、かかりつけ医の一言でした。
医師は知識がある。
病気への対処、治療方法、手術方法……。
でも、痛みや感情や思いは、分からない時がある。
だから、伝聞して欲しい。



旦那に付き添い、医師からその言葉を聞いたあと、ちひろは自宅で星野源さんの『蘇える変態』を読み返しました。



病気のことが書かれた部分は真っ黒なページから始まり、60ページ近くになります。
数ヶ月ぶりに読み返すその部分は、淡々と、そして星野さんの日々の『思い』が描かれていました。
痛みと戦う日々。
一般病棟に戻って、ICUとは違う音を聞いた時の、静かな感動。



そうか。
私が書き残すべきなのは、治療方法なんかじゃなくて、源くんが書いているような日々のことだ。
そして私にしか書けないのは、
源くんが書いていない、家族の思いだ。



そんな当たり前の事を、今更ながら実感しました。
もちろん旦那の病状を説明することは闘病経過を知ってもらうためにも不可欠なので、最低限には含みました。
そして出来上がったのが、嫁であるちひろの感情が主体となった、旦那闘病記です。
ちゃんと書けているのか、自信はありませんが(苦笑)。



もし、あなたが、
あるいはあなたの身近な人が病に倒れた時、
いいえ、何でもない時でもいいのです、
旦那闘病記という名の、嫁の思いを書き連ねた文章を読んだな、という記憶が、
あなたの中で、
何かの種となって繋がることを祈って、
旦那闘病記の、後書きにしたいと思います。



長々と読んでいただき、ありがとうございました。

ちひろ拝


感謝。その1

おはようございます、ちひろです。

集中投稿していた『旦那闘病記。』ですが、たくさんのアクセスをいただき、ビックリしております。


1300越え…


皆さんの感想も読ませていただき、書いてよかったなぁ、としみじみ感じてます。

このブログはあくまでちひろの好きなモノを語る場として立ち上げたので、表向きいろんなところで喧伝するようなものではないです。
なので、リンクはTwitterのみにしてあります。




こちらがちひろのアカウント。
元々、興味本位で立ち上げたアカウントでしたが、今や大好きな『星野源さん』に関することばかり、溢れているアカウントになりました。

ご存知ですか?
星野源さん。

俳優、音楽家、文筆家と多才に活躍する、
そして2016年、2017年と何かと話題に上った(これはちひろの周りだけじゃないと自負してるんですが)方。



星野源さん、実は旦那の病気と同じ病で、2度の入院を経験してます。

彼の著書には病気の描写が出て来ます。
2012年12月に発症。
すぐに緊急手術、数ヶ月で復帰。
しかし、定期検診で手術箇所が万全な状態でなくなったことが発覚、再度の入院、手術。
痛みと吐き気に襲われながらの闘病生活は、彼の著書で淡々と、そして笑いを加えながら描かれています。

ちひろ、星野源という名前は知っていました。
某ファストフードチェーンのCM。
NHKの朝ドラで主人公の弟役で名前を知り。
病気での休養。
底抜けに明るかった、紅白初出場で復帰と音楽家としての一面を知り。

TBSドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」で、俳優として大好きな1人になって、
いろいろネット検索して、音楽家としても大好きなヒトになりました。

そして、病気との闘いの描写を読み、
素直に、



帰って来てくれて、ありがとう。
そう思いました。

それが2017年の初めの出来事です。


旦那闘病記。その13

旦那闘病記はこの記事で終わりです。


先日、かかりつけの病院で発症半年にして、初めての検診を受けた。

くも膜下出血の合併症として最後に表れるのが水頭症出血や手術のあとに脳内に水(?)が必要以上に貯まれば、脳が圧迫されて認知症に似た症状が出てくる。

診察の結果、クリップもちゃんと機能しているし、水頭症の心配も今のところなし。
とはいえ、数年の間は経過観察のために定期的な検診を行うことになった。
何より、くも膜下出血の再発はないことが分かった。

診察の最後にかかりつけ医が言った言葉。


私たち医師は知識がある。
くも膜下出血がどう起きて、どう対処すればいいか、手術の手順も知っている。
けれど、痛みや苦しみは、経験していないから本当は分かっていないかもしれない。
経験した人が、伝聞して欲しい。


その通りだと、思った。
病気がその人の存在理由になってはいけないけれど、
病気の経験はもしかしたら他の人への警告になるかもしれない。
病気になったとしても、少しでも軽く済むための助言になるかもしれない。

決して作家やエッセイストのように洗練された文章が書けるわけではない。
伝わりにくいかもしれない。

けれども、書き記すこと、多くの人の目に触れることが大事なのではないか。

そう感じた。
だから、嫁が書き残すことにした。

5月の発症から数ヶ月に渡った、
旦那の戦いと、
嫁の戦いの、記録を。
誰かに読んでほしい。
そして、自分たちがあの日々を忘れないために。



さて。
長々と書きましたが、

くも膜下出血に限らず、
病は、年齢性別関係なく、
ある日突然、
牙をむきます。

旦那は幸運にも、帰ってきてくれました。
だから、嫁も書くことが出来ます。

けれど、すぐそばにある『地獄』に常に備えることなど、出来ないんです。

出来ることは、2つだと思うのです。

病はそばにあることを、忘れないこと。
危険は潜んでいることを、覚えておくこと。

旦那は、まだ経過観察中。
何が待ち構えているか、わかりません。
ようやく日常が戻ってきた、その喜びを噛み締めながら、時々緩む旦那のケツを叩きながら、日々平穏に過ごしています。
今年の年越しは、二人でガキ使見ながら、年越しそばをすする予定です。
来年も平穏な日々が続く事を祈って、旦那闘病記を終わりにしようと思います。

長文、お読みいただき、ありがとうございました。

ちひろ。



旦那闘病記。その12

退院は6月半ば。
家の近所にある脳外科にかかりつけをお願いし、旦那は退院した翌週に紹介状と記録を持って、診察を受けた。
「次の診察は半年後でいいって」
「え?そんな先?」
「うん。なんかあったらいつ来てもいいって」
それほど経過良好とはさすがに考えていなかった旦那は、職場復帰を早めた。

退院から2週間ほどで、職場復帰。
とはいえ、外の仕事が多いので、これから夏を迎えることを考えて、上司と相談して夏の間は午前中だけの勤務にしてもらった。

最初は職場に向かうだけでも疲れを感じていたのが、すぐに今までどおりの生活に戻っていった。

だが、旦那が少しだけ変わったことがある。
時折口にする、死生観。
旦那は数年前、父親を看取った。
旦那の父親は病気らしい病気をしたことがなく、ひどい腰痛に異常を感じた時には、手の施しようがなかった。とはいえ、数ヶ月ホスピスで過ごし、旦那は頻繁に見舞っていた。
父親の死。
そして、自分の病。
旦那の心に何かを刻んだのは間違いないけれど、常に側にいる嫁にまでそれを明かすことはほとんどないので、分からない。
けれど、ハッとする言葉が飛び出すようになったのは、間違いなく病気のあとからだ。

とはいえ、自暴自棄な言葉ではない。
自分を前向きにするための独り言のようだと、嫁は思っている。

旦那闘病記。その11

その日、旦那は朝から落ち着かなかった。

発症から2週間。
主治医から、脳血管攣縮のリスクが高いと告げられていた期間を過ぎて、現状確認のための精密検査が行われた。

頭の痛みは食後の痛み止めだけでコントロールできるほどに収まっていたし、
その日の朝には、毎日2㍑を超えていた点滴も外された。

検査から帰ってきた旦那は、落ちつかない。
スマホを開いては閉じ、開いては閉じる旦那に、
「あのさ。渡したいものあるんだけど」
「ん?」
嫁は自分の薬指から、結婚指輪を外して渡す。
「検査済んだら渡そうと思ってたから」
「あ、俺のだ」

入院すぐ、旦那の指輪は外され、ほかの貴重品と一緒に嫁に届けられていた。
嫁は自分の指輪ではなく、旦那の指輪を日常につけていて、退院が決まれば渡そうと決めていた。
指輪をはめて、旦那がポツリと言う。

「ようやく帰れそうだね」
「そう、だね」

検査の結果、経過は良好。
翌日の退院が、決まった。

旦那闘病記。その10

旦那がICUから一般病棟に移った頃に、ようやく嫁に余裕が出てきた。
この頃から、あちらこちらに旦那の病状などをメモしたり、発症当時からのことを書き散らしている。

とはいえ、旦那の病状は一般病棟に移った頃から毎日毎日回復に向かい始めた。
一般病棟に移ってすぐの時は両足に浮腫予防の電動圧縮のベルトが巻かれていて、排泄もカテーテル(チューブ)で管理、寝返りも不自由。

それでも術後一週間後には、点滴以外のすべてが外され、病棟内を点滴タワーを押しながらではあったが、自由に歩けるようになった。
後遺症もまずなさそう、リハビリも特に必要なしと、太鼓判を押してもらった。

嫁の付き添いも一段落。
仕事もしているので、上司に事情を説明し、休みを多めに(代わりに何人もの同僚が出勤してくれた)して、休日の前の日に夕暮れの道を車で走り、旦那の隣で1日を過ごして、休日の夜、帰る生活になった。

倒れた日の夜、泣きながら走った道は、
好きな音楽を爆音で流しながら、
時には歌いながら走る、
楽しいドライブコースに変わった。

そんな日々の中、
仕事中の嫁に旦那からメール。
添付ファイルを開くと、
見た事のある風景が。

それは、病院の屋上からの景色だった。

手術中、最悪の事態が避けられたことを知ったあと、それでも落ちつかない気持ちをリセットした方がいいと、嫁の母に勧められて、屋上に上がった。
中核病院は高台にあって、風が強い。けれど屋上からは遠い山の稜線が見えた。
あの日見た景色より、旦那の写真は山の緑は濃い色に変わっていたけれど、
同じだった。

病院の敷地内なら散歩してもいいって言われたから、来てみた。
風が強いけど、いい天気。

旦那からのメールに、嫁は返信する。

良かった良かった。
点滴タワーの充電、切れない様にね(ノ*°▽°)ノ

ようやく、
日常が戻ってくる。
そう思えた瞬間だった。